紀伊半島を一周する車中泊旅の4日目。最終日です。前々日、前日に続いてまたしても快晴、猛暑な朝でした。


この日の朝に決めたことのひとつは、どこにも行かずに松阪近辺で過ごすこと。そしてもうひとつはお昼ご飯でちょっと贅沢するために朝ご飯を抜くこと。
朝一番で向かったのは多気郡多気町の丹生にある水銀鉱山跡。丹生のあたりは古代からの水銀坑道が無数にあり、昭和の時代まで掘られていました。



左側が昔の坑道、右側が昭和に掘られた坑道です。奥から白い冷気が溢れ出してあたりをひんやりと冷やしてくれていました。気持ち良かったです。

水銀鉱から採掘されるのは辰砂と呼ばれる硫化水銀。そもそも古代人はなぜ水銀を重宝したのだろうか。上の写真にあるように文献に登場するのは8世紀末の『続日本紀』からですが、吉備の楯築墳丘墓や丹後の赤坂今井墳丘墓、あるいは北部九州の甕棺墓など、弥生時代の墓から大量の水銀朱が検出されています。弥生時代に水銀はどんな目的で使われたのか、今年の学習テーマにしたいと思っています。

ここの水銀鉱山は昭和になってから地元の北村氏が復活させました。北村氏が考案した水銀精錬装置が残されています。下の説明板と写真をもとに仕組みを書き留めておきます。

①まず、下の写真に見える3カ所の穴(3本の鉄管)に粉末にした辰砂と石灰を10対1の割合で混ぜて入れる。

②上の写真の向かって左の側面に炉があり(下の写真)、ここにおがくずを詰めて点火し、加熱する。

③辰砂に含まれる水銀は300度くらいでガス化し始め、下の写真の真ん中にある垂直の3本の鉄管に向かい、その途中で冷却されて液体の水銀となって下に落ちるのでこれを捕集する。
④残ったガスは下の写真の左斜め下に伸びる鉄管を通って左端の円筒に入り、ここで液化させて捕集する。

かなり簡単な仕組みで水銀が精錬できるようです。昭和30年代にはこの装置で精錬された水銀が月産で340キロもあったというから驚きです。
このあと行く神宮寺(丹生大師)には古代の精錬装置(精錬釜)が残っているといいます。基本原理は同じで、すり潰した辰砂を釜に入れて蓋をする。蓋の上部には小さな穴があいているので、そこに管を通してもう一方の端を水を入れた容器(甕のようなものか)につける。釜を熱し続けると気化した水銀が管を通って水に入り、冷却されて液化する、という仕組みです。水銀の説明はこれくらいにして、次に進みます。
車で少し戻って「せいわの里まめや」というお店で地元のイチゴとブルーベリーを購入し、車の中でそのままいただきました。甘酸っぱくて美味しいイチゴでした。車をそこに置かせてもらってすぐ近くの立梅用水を見学します。



ここにも水銀坑跡が残されています。




水銀朱を勉強中の自分にとってはたいへん満足度の高い場所でした。このあとは、すぐ近くにある丹生大師と丹生神社にお参りしました。
丹生大師は「女人高野丹生山神宮寺成就院」というのが正式名称で、弘法大師の師匠である勤操大徳が開山、弘法大師によって七堂伽藍が建立されたお寺です。



本堂の裏手には丹生都比売を祀る丹生都姫神社がありました。

丹生大師のとなりにある丹生神社は明治時代に10数社の境内社を合祀したために、祭神として埴山姫命、水波賣命ほか16柱が祀られています。



参道の一番奥まったところには丹生中神社があり、金山彦命、金山比女命など17柱が祀られています。丹生神社の埴山姫命は土を掘ることを連想し、この丹生中神社の祭神は金属の神を想起させてくれます。いずれも水銀採掘に関連してここに祀られるようになったと思われます。













