古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

ついに神島に上陸してきた!(後編・神島一周)

2026年6月21日、神島2日目。雨が上がって青空が広がったものの、朝から霧が立ち込めてちょっといやな予感。しかも蒸し暑い。でもまあ、少なくとも雨が上がってよかった、と言いながら宿を出て八代神社に向けて歩き始めると霧が晴れてきた。

島一周のスタートです。いきなり200段以上の上り階段ですがワクワクです。

まずは八代神社を参拝。きれいに整備されていて社殿も新しい。

伊勢神宮遷宮のあと、おさがりの神材で遷宮が行われることは知っていたので、前回がいつだったのかを友人に聞くと「2年前」と教えてくれた。

この遷宮奉賛寄附の芳名簿を見て驚いた。小久保さんが多いというのは聞いていたけど、これを見ると半分くらいが小久保さんだ。藤原さん、寺田さんもそれぞれ1割くらい。宮司さんが藤原さんで友人の旧姓が寺田さんです。境内には神宮遥拝所もありました。

八代神社のことは書きたいことがたくさんあるけど、それはまた別の機会にして、先に進みます。神社を後にして境内裏手の坂道を登っていきます。この道は映画で三浦友和や鶴見辰吾が演じた久保新治が魚をもって灯台守が住む官舎まで歩いた坂道。いまはこんな感じで歩きやすくなってます。

しばらく行くと到着。

日本の灯台50選にも選ばれた神島灯台。昔は島民なら中に入れたらしいのですが、さすがに今はダメになったようです。

でも、灯台もさることながら、ここからの眺望は息をのみました。伊良湖岬が手に取るように見えます。すっかり霧も晴れて、最高の絶景です。

よく見えないと思いますが、たくさんの小さな漁船が漁をしています。この幅4キロの狭い伊良湖水道が伊勢湾と太平洋を往来する大型船の通り道。でも大型船が通れるところは幅1.2キロしかないらしい。しかもそこは絶好の漁場でもあるから、こんなことになります。

大型船がすれ違うすぐ近くで漁をしています。横波を受けて転覆することもあるらしいのです。

灯台からさらに山を登って先に進みます。途中、三角点のある灯明山の山頂にも行ける道があるとのことだったけど今回はパスして先に進みます。次はぜひ山頂に行ってみたい。歩を進めるとやがて下りに入り、5分ほどで監的硝跡に到着。

伊良湖岬から撃った砲弾の落下点を観測するために建てられた旧陸軍の施設です。映画のクライマックスシーンに出てきます。

「その火を飛び越してこい」と吉永小百合、山口百恵、堀ちえみらが演じる宮田初江が言ったその火が焚かれたところと言われますが、映画をよく見ると焚火のシーンにこの炉はなかった。あとで作ったのか、それともここで撮影されてはいなかったのか。

屋上からは志摩半島まで見渡せて気持ち良い。

監的硝跡からはずっと下り坂。途中、反対側からやってきた塩作りのお兄さんに出くわして、こんなところに連れて行ってもらった。

天の岩戸だそう。直感的に古墳の横穴式石室の天井石かと思ったけど、どうでしょう。ここからさらに下ると一気に視界が広がった。カルスト地形とニワの浜。

石灰岩はセメントの材料になることから、昔は切り出してセメント業者に売っていたらしい。さらに、その頃は海鵜がたくさんいて、その鵜の群れの糞が肥料になるからと、それを集めて売る人もいたとか。こういう話は地元民ならでは。

ニワの浜のすぐ近くにある神島小中学校。2017年に小学校と中学校が統合されて新しい校舎が建てられたそうで、小中学生あわせても10人に満たないらしい。

ここから島の西側に向かいます。

古里(ごり)の浜に抜ける途中、こんなのがありました。「南無阿弥陀佛」と彫られた碑の横に白い石が積まれています。

お墓のような感じ。友人の話だと、理由は定かではないけど、すぐ近くの鍾乳洞から持ち帰った白い石をここに置いていくらしい。神聖な場所と認識されているのでしょうか。帰宅後に調べてみると、海で遭難した人を供養する塚とか、皇子の古墳とか、デキ皇子の塚とかいった伝承があるらしい。三島由紀夫が潮騒に「王子の古墳」と記すように、この神島には古墳があるらしく、先にみた石室の天井石かと思われる天の岩戸だろうか、それともこの場所なのか、などと思案しながら調べ中です。

すぐそこに古里の浜が広がり、大きな八畳岩が現れました。

正面に立つと大きくふたつに割れていて、島の男子たちはその割れ目に飛び込むのだそう。無邪気に危ないことをするのが昔の子ども。ここも潮騒のロケ地です。
浜のいちばん左手の岩場の向こう側に鍾乳洞があるというので、連れて行ってもらいました。(ここは島民の同行がないと行けない危険なところです。)

満ち潮で波が少し荒かったのでこれ以上近づくことができず残念でした。次の楽しみにとっておこう。

このあとは貝殻や打ち上げられたワカメを採りながら浜辺を散策。浜の端っこまで行って古里の浜とお別れして再び山を登ります。

少し上ると坂道の右手に現れました。白長大明神といいます。

石の下には白蛇が埋められているらしく、浜の小石を持ってきてはこのように置いていくのだそうです。調べてみると、昔、白蛇を殺してしまった老婆が原因不明の体調不良に見舞われ、ここで白蛇を供養したら体調が元に戻ったということらしい。さらに上に行くと大きな岩があります。鏡石です。

その昔は沖合の船から見ると太陽の陽を受けて白く光っていたので目印にしたとか、浜でひと仕事した女性たちが自宅に戻る前に鏡のように光るこの石に自分の姿を映して身なりを整えたとか、この石にオイルを塗ると白く光って鏡のようになるので顔を映して化粧直しをしたとか。

島唯一の車が通れる道に出る手前にこんなところがありました。

ニワの浜の近くに神島小中学校がありましたが、移転した1970年まではここに中学校があったそう。その敷地だったところは踏み込むことを躊躇するくらいに木々が生い茂って、学校があったなんて想像もできない状況になってました。

ようやく広い道に出たところで、道がふた手に分かれます。一方はこのまま村に戻っていく切り通しの道で鼻赤峠といいます。寒風が吹きぬけるこの道を通ると寒さで鼻が赤くなるから、とか。

このまま行くと村に戻れるのだけど、こちらを選択せずにちょっとだけ遠回りとなる車の道を歩くことにしました。NTTの電話交換所、斎場、ゴミ焼却場が並んで建っています。現在は斎場は使われていなくて鳥羽まで運ばれて荼毘に付されるそう。

いよいよ港が見えてきました。この△標識は港に入る船のためのものでしょうか。ちょうど伊良湖行きのフェリーが通過中。

発電所跡地の前を通って港に戻ってきました。

出発から3時間、神島一周の旅を堪能しました。しかし、とんでもなく暑かった。最後は「かき氷を食べよう」と言って励ましあいながら帰還。そしてやま海へ。ところが、なんと、まだかき氷はやってないと。仕方なくソーダフロートで身体を冷やしました。美味しかったよ。

やま海で1時間ほど休憩してから友人宅へお邪魔し、3時の船まで時間があったのでワールドカップのチュニジア戦をテレビ観戦。そして荷物をもって港まで歩いていくと、ご近所のおばさん方が「もう船は出たよ」と。春のダイヤ改正で船の時間が変更されていたのです。肩を落とす友人。ちょうどそこへ昨日お邪魔したおじさんが通りかかって「うちに来い」と声をかけてくれたので、またしてもお邪魔することに。

おじさん宅で楽しく過ごした後、無事に18時の船に乗ることができたのだけど、波がかなり高くて奥さんが船酔いに見舞われ、なかなか厳しい帰還となりました。鳥羽から近鉄特急で伊勢中川へ、そして友人のご主人に伊勢中川駅まで迎えに来てもらって友人宅に到着。お風呂を借りて体調回復を待って友人宅をあとにしました。

この日は「道の駅ふれあいの里HASUパーク」で車中泊。翌日はメロンを買いに渥美半島まで走り、そのまま自宅まで戻ってきました。わずか3泊4日の旅でしたが、友人ご夫妻に非常によくしてもらったこと、念願の神島に上陸できたこと、その神島で友人はもとより、宮司さんやおばさん夫妻、山海荘の皆さんによくしてもらったこと、島の人しか語れない話をたくさん聞けたこと、そしてまた行きたいという気持ちが今まで以上に湧いていることなどなど、長い人生において最高、最良の旅となったのは間違いないです。皆さん、とくに友人ご夫妻、本当にありがとうございました。

 

(おわり)

 

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神島やゲーター祭りのことを書いています。

 

 

 

ついに神島に上陸してきた!(中編・神島上陸)

2026年6月20日、いよいよ神島上陸の日がやってきました。ところが夜半から降り出した雨が止む気配なく、残念ながら雨の中での上陸です。友人のご主人に鳥羽のマリンターミナルまで送っていただきました。ありがとうございました。

定期船は答志島を経由して神島に向かいます。

途中、伊良湖岬からのフェリーとすれ違いました。4年前に乗った船です。

答志島と菅島の間を抜けると急に波が高くなって揺れ出しました。船室を出てデッキから景色を眺めていたのですが、あまりに揺れるので立っていられなくなり、船室に戻ります。鳥羽を出てから40分ほどで到着です。

三島由紀夫の「潮騒」の碑がお出迎えしてくれました。

すぐそこの空き地に使われなくなったタコ壺が積まれて放置されています。神島のタコが有名なのは今回初めて知りました。

港の目の前にある郵便局。島唯一の金融機関で、全島民の現金がここに集まってくるのでしょうね。

港に並行するメインストリートから路地に踏み入ります。

村の中はこういう路地や階段、坂道が張り巡っています。というか、メインストリート以外はこんな路地ばかり。ひとたび火事が起これば村が全焼すると言っても過言ではなく、村の中では歩き煙草厳禁の張り紙を見かけました。

階段をのぼって八代神社の鳥居まで来ると少し高台になっていて、村全体を眺めることができます。

御朱印をいただきに社務所に伺い、部屋に飾られた古い写真などを拝見させていただきました。雨が降っていたので参拝は翌日にしました。

天気が良ければ島を一周しようかと友人が考えてくれていたのですが、雨が上がる気配がなかったので友人のご実家にお邪魔したあと、「やま海」という飲食店で少し遅いランチをとりました。

この時計台は昔、富山の薬売りから寄贈されたものらしく、当時は島で唯一の時計だったとか。やま海のランチ、美味しかったよ。このあと、村の中を少し散策。

山から流れ出す山水を利用した洗濯場。潮騒の映画にも登場します。

洗濯場の横の階段を上がったところに建つこのお宅は、三島由紀夫が居候して潮騒を書いたお宅。現在は誰もお住まいではありませんが、観光客のために雨戸を開けてくれたりしているそう。

共同炊事場。洗濯場と同様、現在は使われている気配がありませんでした。

このあと、港の奥に建つ友人のおばさん宅にお邪魔しました。ご夫妻ともにお元気で、いろいろと楽しいお話を伺いました。スマホを片手にググる姿を見て、まったくお歳を感じさせないお年寄りでした。いつまでもお元気で。

港にプールがあるのがちょっと不思議。子供たちが港で泳いで危なかったから作られたそう。このプール、港の海水を使うので魚が泳ぐこともあるとか。

手前の黒い建物は製塩所。もともとは漁船の修理のための設備があったそう。このあたりは東の浜と呼ばれ、2017年を最後に休止されているゲーター祭りが行われた場所です。

一番奥にヘリポートがあります。急病人などを搬送する際に船では時間がかかるので設けられたとのこと。でも、このヘリポートまで運んでくるのが大変なんだと。お年寄りばかりで病人をかついで階段を下りて、、、たしかに。

島で唯一つのお寺、桂光院。曹洞宗のお寺です。

裏手に回ると墓地。

今晩のお宿「山海荘」。女将さんは友人のご親戚だそう。

たまたま一組のキャンセルが出たので泊まれることになったのだけど、そうでなければ友人宅に泊めてもらう予定でした。新鮮なお刺身も煮付けも美味かったなあ。

お宿の中は潮騒のロケのときの写真やポスターなどがいっぱい。帰宅後にいろいろとYouTubeを見ていると、港でのセリのシーンでここの女将さんが登場してインタビューを受けているのを見た。20年位前の動画でした。さあ、明日は晴れるでしょうか。

 

ところで、そもそも私が神島に興味を持ち、上陸したい気持ちが強くなったのは、私が古代史好きなことを知った奥さんの友人から神島のゲーター祭りのことを聞いたからです。ちょうど伊勢神宮や天照大神のことを調べてブログに書いていたときだったにも関わらず、ゲーター祭りどころか神島のこともよくわかっていなかった。そしていろいろと調べて考えた結果、伊勢神宮の成立や天照大神の誕生に大きく関わっていたであろうと確信を持つに至り、どうしても行ってみたくなったのです。残念ながらゲーター祭りは2017年を最後に執り行われていないために見ることは叶いませんが、島の空気を吸い、島からの景色を眺め、そして友人や友人のおばさん夫妻、八代神社宮司さん、旅館の女将さんなど島の人の話を聞いてたくさんの情報をインプットすることができました。この機会を作ってくれた友人に本当に感謝します。ありがとうございました。明日は神島を一周します。

 

(つづく)

 

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ついに神島に上陸してきた!(前編・物部神社ほか)

2026年6月20日、念願の神島に上陸してきました。奥さんの友人が神島の出身で、以前から案内してあげるとお誘いを受けていて、このたび、ようやくその機会が訪れました。その旅の様子を前編・中編・後編の3回に分けて投稿しますが、神島は中・後編に登場します。

前日19日のお昼前、三重県津市在住の奥さんの友人宅に向けて自宅を出発。まずは津市新家町の物部神社を訪ねました。雲出川と近鉄名古屋線が交差するところの線路わきに鎮座。式内社として全国に18社しかない物部神社のひとつです。鎮座地の町名である新家(にのみ)は物部氏の一族である新家連に由来するらしい。

祭神は宇麻志麻遅命。ほかに建速須佐之男命、彌都波能売命、大己貴命、応神天皇、仁徳天皇が配祀され、さらに五男三女神(天忍穂耳命、天菩卑命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市杵島比売命、多岐津比売命)、菅原神、火之迦具土神が合祀されています。五男三女神というのは天照大神と素戔嗚尊が誓約をしたときに生まれた神々。

別名を「山辺行宮(やまべのかりみや)」と言い、縁起を記した巻物に「伊勢國一志郡新家村山辺行宮、祭神牛頭天王一座素戔嗚尊荒魂也(中略)止由気大神遷幸、山田原へ渡過の時、一宿の旅館、是れその地也。」と書かれていたらしい。

ちょうど近鉄特急が通過しました。

駐車場を出て広い道に出ようと走っていると突然に視界に入ったのがこれ。

6月3日からの古代史旅のときに時間がなくてパスした赤坂遺跡です。GoogleMapで何度も見ていたので突然の出現にもかかわらず判りました。

このあと、4月に潮干狩りに行った御殿場海岸に行ってみました。4月のときはバカ貝ばかりだったので、次はハマグリやマテ貝を採ろうと思って前回と違う場所の下見です。

前回の場所が水上公園のようになっていて、ジェットスキーをぶっ飛ばす若者がはしゃいでました。

潮干狩りの下見を済ませて待ち合わせ場所、磨洞温泉涼風荘という旅館に向かいます。入浴と食事のセットを予約してもらっていたので先に温泉に浸かって汗を流したあと、フロントで友人夫妻と合流し、洞窟内に設けられた食事処で浜焼きを堪能しました。

涼風荘の隣にある洞窟はもともと研磨剤となる磨き砂を採取していた洞窟で、戦時中にはゼロ戦のプロペラ工場として利用されていたとか。磨洞温泉とは磨き砂の「磨」と洞窟の「洞」から命名されたらしい。

食後は友人宅にお招きいただき、YouTubeを見ながら翌日に行く神島の予習です。どんどん気持ちが高揚していきます。そのまま友人宅で泊まらせていただき、翌朝を迎えます。

 

(つづく)

 

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宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅(21) 馬塚古墳・貴人塚古墳・赤井塚古墳・御杖神社

宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅の最終日は「伊賀の古墳時代」をテーマに伊賀から名張を巡ります。今回の古代史旅の投稿はこれが最後となります。

美旗古墳群の後半戦は馬塚古墳から。全長142mの前方後円墳で5世紀後半の築造。美旗古墳群最大規模で、三重県内でも御墓山古墳に次ぐ第2位の規模。

くびれ部から後円部を見上げると飛行機雲が交差していた。なかなか良い写真。

前方部から後円部。

後円部墳頂から前方部。

墳頂には大きな盗掘抗。下から登ってきたときの通路になってしまっている。地面をよく見ると埴輪片があちこちに埋まっています。資料によると、円筒埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪が出土しているとのことです。

右側の造り出し。

左側の造り出し。

青い空の下、きれいに整備されて緑に覆われた姿のなんと美しいことよ。今回のツアーで見てきた古墳の中でも一番ではないかな。

さて次は貴人塚古墳です。6世紀初頭の築造、全長55m、美旗古墳群最後の前方後円墳です。ここもきれいに草が刈られていてなかなか美しい。

前方部右手から。

左手から。

この古墳だけ墳丘上に碑が建っています。

いよいよ美旗古墳群の最後、そしてこのツアーの最後の古墳、赤井塚古墳です。直径22mの円墳で6世紀後半の築造。

墳丘が削られて両袖式の横穴式石室がむき出しになっています。出土遺物は確認されていないとのこと。

背後から。

美旗古墳群は小波田川右岸に広がる平坦な美旗台地に位置する5基の前報後円墳(帆立貝式古墳)を中心に円墳、方墳で構成される4世紀末から6世紀後半の古墳群。首長墓として、殿塚→女良塚→毘沙門塚→馬塚→貴人塚の順に築造されました。

さて、このあとは国道422号線を南下して奈良県宇陀郡に戻ります。最後の訪問地、御杖神社です。神社前のガソリンスタンド跡地が駐車場に、その事務所跡が資料室になっています。

 

境内は思っていたほど広くありません。

祭神は久那斗神、八街比古神、八街比女神の三柱。

社伝によれば、第11代垂仁天皇の勅命により、倭姫命は大和国笠縫邑より御杖代として天照大神を祀るための土地を求めて各地を巡ったが、伊勢国に向かう際にこの地に行宮を作って休まれたことが創祀とされるとのこと。倭姫命が訪れたことの印として「杖」を残したとする伝承もあり、現在もその「杖」を祀っているらしいのですが、よくわかりませんでした。

 

以上で3泊4日の宇陀・伊勢・伊賀を巡るツアーの最後の踏査を終え、大和八木駅まで戻って解散となりました。台風通過直後の初日は思っていたほどの風雨にさらされることなく無難にスタートできましたが、レンタカーの不調による車の交換、ホテルのエレベーター故障によるホテル変更などのトラブルに見舞われました。2日目以降も時間の関係でパスした場所が何か所かありましたが、おおむね順調に行程を進めることができたと思います。皆さん、円滑な遂行にご協力をいただき、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

 

今回のツアーで伊勢神宮に関係するところをいくつも訪ねたことで、あらためて伊勢神宮をもう少し深掘りしてみたいと思うとともに、伊勢神宮創祀を考える上でも伊勢の古墳時代をつかんでおく必要性を感じました。そして、うれしいことにこのブログを執筆中、伊勢湾に浮かぶ神の島、神島を訪れる機会に恵まれました。そのことも含めて、いずれ目に見える形にしていきたいと思います。

 

(おわり)

 

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宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅(20) 女良塚古墳・殿塚古墳・毘沙門塚古墳・美旗市民センター

宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅の最終日は「伊賀の古墳時代」をテーマに伊賀から名張を巡ります。

伊賀の北中部の探索を終えて南部の名張まで走ってきました。ここから美旗古墳群を巡ります。

まずは女郎塚古墳です。「めらづか」ではなく「じょろうづか」です。名張市の資料によると、全長100mの帆立貝式古墳で5世紀前半の築造。

ここにはホタテ貝に似た前方後円墳とある。後円部3段、前方部2段の築成で全面を葺石が覆っているらしい。

ここから出土した家形埴輪がこのあと行く美旗市民センターの歴史資料室に展示されていました。

見ての通り、草が生い茂っていて近づけない。幅が12mもある周濠もあるということなので眺めるだけにしました。

次は殿塚古墳。全長92mの前方後円墳で4世紀末の築造。周濠跡と思われる平坦地には墓地が広がっていて近づくのを拒んでいるようでした。

こちらも名張市の資料と少し違っています。

次は毘沙門塚古墳。全長65mの前方後円墳または帆立貝式古墳で5世紀中頃の築造。

こちらは前方後円墳とも帆立貝式古墳とも言ってないですね。

周囲は水を湛えた周濠が巡っています。これは前方部手前の周濠です。

この3つの古墳の規模と築造順を整理すると、殿塚古墳(4世紀末、92m)→女良塚古墳(5世紀前半、100m)→毘沙門塚古墳(5世紀中頃、65m)となります。

このあと、ランチタイムを挟んで美旗市民センターの歴史資料室を見学しました。前方後円墳を模しているユニークな建物です。

美旗古墳群では全部で6基の古墳を探索しますが、ここから後半戦に入ります。

 

(つづく)

 

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宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅(19) 石山古墳・王塚古墳・城之越遺跡

宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅の最終日は「伊賀の古墳時代」をテーマに伊賀から名張を巡ります。

敢國神社を出て20分ほどで次の目的地、石山古墳に到着。一面に水田が広がる中を真っすぐに伸びる道を突き当りまで走ります。古墳のある丘陵地は私有地のためか、フェンスに囲まれて近寄ることができません

石山古墳は全長120m、4世紀後半の前方後円墳です。ここは御墓山古墳と違って半世紀以上前に詳しい調査が行われた結果、学術的に非常に高い価値があって、その後の古墳研究に大きく寄与した古墳時代前期を代表する古墳であるにもかかわらず、国、県、市のいずれの史跡にも指定されていません。土地所有者との関係によるのでしょうか。

わたしのnoteの記事「古墳を舞台にした儀礼」でこの石山古墳に触れた部分があるので以下に抜粋して紹介させていただきます。

後円部墳頂には東槨、中央槨、西槨の3基の粘土槨があり、仿製神獣鏡などの鏡、車輪石などの石製儀器、素環頭大刀や盾などの武器・武具、鉄製農工具などが副葬されていました。各粘土槨の外側では盾、刀などの武器・武具のほか三角縁神獣鏡片が見つかっています。3基の粘土槨上の方形壇を囲むように二重の方形埴輪列がめぐり、内側の埴輪列には各辺に盾形埴輪が、四隅に蓋形埴輪が配置され、外側の埴輪列は鰭付き円筒埴輪の上に蓋形埴輪をのせたものがめぐります。方形区画内には複数の家形埴輪の存在が推測されています。古墳の東側くびれ部には地山を方形に削り出し、円筒埴輪をめぐらした区画があり、内側に大型の家形埴輪や囲形埴輪が確認されます。東方外区と呼ばれるこの区画はのちの造り出しにつながるものと考えられます。

加えて三重県公式サイトにある「歴史の情報蔵」に掲載されている石山古墳の測量図を拝借して掲載します。

さらに「亀山市通史編 第2節 古墳時代の亀山」にある「図22 伊賀市石山古墳後円部墳頂部の埴輪樹立状況復元模式図」もお借りします。

松阪市で見た宝塚1号墳に匹敵する価値がある古墳だと思います。地権者と交渉して保存、整備、公開ができるようになることを希望します。

さて次はこの石山古墳からすぐのところ、水田のなかにポツンと浮かぶ王塚古墳です。

全長48mの前方後円墳。採取された埴輪から5世紀後葉から6世紀前葉の築造とされています。石山古墳から100年と少しあと、つまり数代あとの首長墓と考えられます。

お手頃な墳丘なので登れるかと思っていましたが、これだけ草が茂っていたので断念しました。

次は当初の予定になかった城之越遺跡へ行くことになりました。目的は隣接する学習館で石山古墳の展示を見るためです。

ついでに城之越遺跡を見学。3か所の井泉から湧水を引き込んだ貼石溝があり、古墳時代前期後半から中期にかけて湧水を対象とした祭祀が盛んに行われたと推定されています。

湧水遺構のほか、4棟の大型建物跡も見つかっています。

以上で伊賀地区の探索を終えて次は名張の美旗古墳群へ向かいます。

(つづく)

 

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宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅(18) 御墓山古墳・敢国神社

宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅の最終日は「伊賀の古墳時代」をテーマに伊賀から名張を巡ります。

まずは伊賀市にある御墓山古墳。三重県最大、全長188mの前方後円墳で、三重県埋蔵文化財センターによると採収された埴輪などから5世紀初めの築造とされていますが、この説明板には5世紀前半と書かれています。また、三重県教育委員会では5世紀後半とされています。

草木が生い茂る中を前方部の左隅角から踏み込んでいきます。

墳丘の左手を進みます。

くびれ部です。

くびれ部から墳丘に登ります。

くびれ部を登ったところから見た前方部。かなり広い。

くびれ部。

反対側のくびれ部に造り出し。

後円部に登る通路。

後円部の墳頂にあるこの大きな穴は盗掘抗かな。これまで発掘調査がされていないので埋葬施設について詳しいことはわかっていないとのこと。発掘調査もせず、詳しいことがわかっていないのに国の史跡に指定するというのはどういうことでしょう。単に三重県最大規模ということだけで史跡指定されたのでしょうか。史跡に指定された以上は特段の理由がない限り発掘できなくなります。この問題、いつもモヤモヤします。

後円部墳頂から前方部。

前方部から後円部。

意外に小さな葺石。

歩いてみると全長188mはやはり大きかった。伊賀地域を代表する首長墓として、地元では第8代孝元天皇皇子の大彦命の墓と伝えられています。次はその大彦命を祭神とする伊賀国一之宮の敢國神社へ行きます。

その敢國神社には5分ほどで到着。

現在の主祭神は大彦命ですが、Wikipediaによると『延喜式』以来、現代にいたるまで様々な説によって祭神が二転三転しているよう。その候補となっていた少彦名命と金山比咩命は現在は配神となっています。

このあたりは阿閉氏(敢氏)の勢力地で、その阿閉氏は大彦命を祖とする氏族。大彦命は四道将軍のひとりで北陸に派遣されているけど、そもそもこの地にどんな所縁があるのかな。

そうそう、ここは伊賀。伊賀と言えば伊賀忍者。この敢國神社は服部半蔵を輩出した伊賀忍者の頭領、服部一族の氏神だったとのこと。そんなことにも思いを馳せながら次に向かいます。

 

(つづく)

 

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宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅(17) 庵ノ門1号墳・雲出島貫遺跡・池の谷古墳

「南伊勢の古墳時代」をテーマに3日目を巡っています。

4世紀以降、一志郡に連綿と築かれることになる前方後方墳の嚆矢となる庵ノ門1号墳にやってきました。4世紀初頭、伊勢最古の前方後方墳で全長が37m、出土遺物などは全く不明とされます。保育園横の坂道を上がっていきます。

丘陵に上がると鳥居が建っていて、その奥に小さな石碑のようなものがいくつも見えます。ここが墳丘かとおもったものの、実は違っていました。

石碑には「山神」や「庚申」と刻まれていました。奥に小さな高まりが見えますが、これが庵ノ門1号墳の後方部です。

こちらはふたつの小さなお堂が建っていて、弘法大師と地蔵菩薩の石像が安置されているらしい。

後方部から前方部。

前方部には「大日」と刻まれた石碑。

後世の改変によって墳形が不明確となり、とくに前方部が確定できないことから一辺20mの方墳とする説もあるそうです。何となく前方後方墳に見えるのはたまたまということかな。手前が前方部で奥に後方部。

丘陵上にはこの1号墳を含め全部で6基の古墳があるそうですが、どれもが半壊または消滅してしまったそうです。ここまで庵ノ門古墳、西山古墳、筒野1号墳、向山古墳、錆山古墳、郡塚古墳とみてきましたが、この地の歴代の盟主墳はすべてが丘陵の上に築かれていたことがわかりました。

次は県道413号線を走って雲出川に架かる雲出橋を渡ってすぐのほほえみ公園へ。この常夜灯は200mほど下流にあった伊勢街道の雲出川の渡し場にあったものを移設してきたのだとか。この奥、雲出川左岸に雲出島貫遺跡が広がっています。

雲出島貫遺跡は縄文時代の墓や弥生時代後期から古墳時代前期の環濠に囲まれた集落と墓、さらには豪華な副葬品をもつ中世墓と堀で囲まれた屋敷地などが見つかり、長きにわたって栄えた注目される遺跡ですが、現在はその痕跡を全くとどめていません。

ここに来たのは島貫遺跡を感じることのほか、雲出川をしっかりと見ておきたかったから。というのも、尾張を中心とする東海地区から出るS字状口縁台付甕、いわゆるS字甕には雲出川の土が必ず使われているというので、その川の土を見ておきたかった。でも、草で覆われて土がよくわからなかった。

雲出川周辺の遺跡ではS字甕がたくさん出ているのかと思っていたけど、この雲出島貫遺跡も先に行った片部遺跡、貝蔵遺跡でも全く登場しなかった。次に予定していた赤坂遺跡は時間がなくてパスしたのだけど、後日に訪ねる機会があって確認したのだけど、やっぱりなかった。

S字甕は雲出川の土が必ず使われていると言われるのだけど、その製作地は雲出川流域ではないということか。つまり、ここから土を持ち帰って地元の村で作っていたことになる。なぜそんな面倒なことを。ここの土にどんな意味があるのだろう。

時刻はすでに17時。このあとは伊賀まで走る予定なので先述の通り、つぎの赤坂遺跡はパスするととしても、ここから10分ほどの池の谷古墳は何とか行っておきたかった。

標高50mほどの丘陵上にある全長90mの前方後円墳で、4世紀末~5世紀初頭の築造とされます。丘陵の東麓は現在でも藤方(=藤潟)の地名が残る潟湖を利用した古代の港があったとされるところ。

説明板の背後に後円部、二段築成の一段目を上がります。

さらに上がって墳頂へ。

後円部墳頂は平坦です。

前方部。中世に砦が築かれたときに前方部を断ち切るように堀が設けられました。

帰ろうとしたときに数人のグループが墳丘にやってきました。遺跡研究会とか言ってたかな。日本のみならず世界各地の遺跡を巡っている団体のようです。少し情報交換して別れました。そして本日の探索はここで終了。このあと伊賀まで国道163号線で山越えで行く予定でしたが、時間が遅くなっていたので津インターから高速に乗ることにしました。

伊賀のホテルにチェックインしたあと、ホテル横の焼肉屋さんで晩ご飯。肉がうまい。松阪の焼肉よりも美味かった。さすが伊賀牛、と思って帰りに店長さんに聞くと、なんと鹿児島牛だと。

それにしても美味かった。また来たい。

 

(つづく)

 

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宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅(16) 天白遺跡・錆山古墳・向山古墳

「南伊勢の古墳時代」をテーマに3日目を巡っています。

次は嬉野考古館で情報をインプットした天白遺跡へ向かいます。縄文時代後期中葉から晩期初頭にかけての配石遺構30基、埋設土器26基、焼土30基などが出土した遺跡で、これほど大規模な配石遺構、東北へ行けば大湯環状列石や小牧野遺跡、伊勢堂岱遺跡など多く見られますが、西日本では珍しいですね。少なくとも私はほかに知りません。

レーダー探査で遺構・遺物の広がりが東西約90m、南北約100mと広範囲におよび、表土下1mの地点に遺構があり、配石遺構が大きく環状を呈することがわかりました。

多数の配石遺構のほかに埋設土器、焼土、土偶、石棒、石剣、焼骨、勾玉土製品・辰砂原石などが出土しています。土器は深鉢、浅鉢、壺、注口土器のほかに皿状、高杯状、釣り手土器、ミニチュア土器などがあります。住居等は現在まで確認されておらず、これらのことから、大規模な葬送儀礼や遺物の廃棄儀礼など様々な祭祀行為が行われたことが想定されます。

現地では配石遺構群が復元されていました。

ちょうど地元の方が草刈りをしているところでした。お話を伺うと、国の史跡に指定され、整備がされてしばらくは大勢の人が訪れたんだけど、今はさっぱりということでした。私たちが東京や大阪から来たと告げると驚かれました。

神奈備山のように見える山の名前を聞いたのだけど忘れてしまった。

この旅に出てからずっと感じていることは、三重県って伊勢神宮一本足打法で、こういう素晴らしい歴史資産、文化財を活用して他県から人を呼ぶのが下手だなあ、というか呼ぶ気がないんだな、ということ。

天白遺跡のすぐ近く、中村川の橋のたもとに釜生田辻垣内瓦窯跡群で出土した鴟尾のミニレプリカがありました。出土地はこの近くのようです。

さて次は錆山古墳です。この丘陵上に4世紀末に築かれたとされる全長47mの前方後方墳があるはずです。

でも、丘陵に上って行こうとしたらこんな状況でした。

もともと私有地だとわかっていたので「あわよくば」と思って行ってみたものの残念でした。

そして次の向山古墳に向かったものの、こちらも駐車スペースを見つけることができずに断念。事前に調べていたものの、行ってみると停めれる状況ではなかったのです。4世紀後半の築造で三重県下最大規模の全長82.2mの前方後方墳はこのあたり、という雰囲気だけでも。

錆山古墳と向山古墳に近づけなかったのは残念だったけど仕方がない。この残念な気持ちは次の庵ノ門1号墳で取り返そう。

 

(つづく)

 

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宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅(15) 郡塚古墳・筒野1号墳

宇陀・伊勢・伊賀を巡る古代史旅の3日目のテーマは「南伊勢の古墳時代」です。

貝蔵遺跡を出てランチを済ませたあと、一志町の村のはずれをほぼ行き止まりまで走りって郡塚古墳に到着です。車は路駐させていただきました。車を停めた目の前の丘の上に古墳があります。

丘陵の下まで行くと左側に小さな登り口がわかりやすくついています。

墳丘を回り込むように上ります。

丘の上まで上ると説明板が建っています。

径35m、西側に造り出しをもつ5世紀初頭の帆立貝式古墳とされます。嬉野地域(一志郡)で連綿と続いた前方後方墳の築造が停止されたあと、最初に造られた古墳です。墳丘に登る階段が付いています。

墳頂部はきれいな円形になっていて小さな祠が建っています。主体部等の埋葬施設は確認されていないとのことですが、内行花文鏡一面や鉄鏃19点が東京国立博物館に所蔵されているようです。

造り出しが確認できますが、小さな前方部とも言えそうです。けっこうな高低差があります。

墳丘にはこのように一面に竹が生い茂っていますが、それ以外はきれいに保たれているので、地元の方々、あるいは地主さんが整備に努めておられるのかもわかりません。

次はここから北にすぐのところ、谷を一つ隔てた丘陵上にある筒野1号墳を目指しますが、田んぼの中のまっすぐに伸びる道の入り口のところに説明板が建っています。

向こうの丘陵の麓まで走ります。丘陵の真ん中あたりに古墳があるはずです。

丘陵に沿って流れる小川に架かる橋を渡れば駐車できそうなスペースがあったのですが、3日前の台風のために竹や木々が散乱して入れなかったので、仕方なく橋の上に停めました。橋を渡って丘陵に踏み込むとこんな物騒な檻が設置されていました。

猪や熊などを捕獲するための檻でしょうか。墳丘はこの奥にあるはずなのですが、こんな檻が置かれているということは、そんな動物がいるということでしょう。木々が茂っているのと、足元がぬかるんでいるのとで前進が難しいことも手伝って、これ以上の探索を断念しました。

筒野1号墳は通称「壱志君塚」と呼ばれ、前方部を東に向けた全長39.5mの前方後方墳です。4世紀前半、西山古墳より少し遅れての築造で、葺石や周濠が確認されています。船形の主体部から二面の三角縁神獣鏡(獣文帯三神三獣鏡・波文帯三神三獣鏡)のほか四面の鏡、碧玉製石釧、水晶製玉類が出土していて、全て東京国立博物館に所蔵されています。獣文帯鏡は大分県の赤塚古墳などのものと同范とされます。

一志郡(壱志郡)にあるこの古墳が通称「壱志君塚」と呼ばれる以上は壱志君が葬られている可能性があるでしょう。壱志君(壹師君)は第5代孝昭天皇の皇子、天押帯日子命を祖とすることが『古事記』に記され、一般的には和珥氏の支族とされています。詳しく調べていないものの、非常に興味深い古墳です。

 

(つづく)

 

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