古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

紀伊半島一周車中泊旅(4日目)

紀伊半島を一周する車中泊旅の4日目。最終日です。前々日、前日に続いてまたしても快晴、猛暑な朝でした。

この日の朝に決めたことのひとつは、どこにも行かずに松阪近辺で過ごすこと。そしてもうひとつはお昼ご飯でちょっと贅沢するために朝ご飯を抜くこと。

朝一番で向かったのは多気多気町の丹生にある水銀鉱山跡。丹生のあたりは古代からの水銀坑道が無数にあり、昭和の時代まで掘られていました。

左側が昔の坑道、右側が昭和に掘られた坑道です。奥から白い冷気が溢れ出してあたりをひんやりと冷やしてくれていました。気持ち良かったです。

水銀鉱から採掘されるのは辰砂と呼ばれる硫化水銀。そもそも古代人はなぜ水銀を重宝したのだろうか。上の写真にあるように文献に登場するのは8世紀末の『続日本紀』からですが、吉備の楯築墳丘墓や丹後の赤坂今井墳丘墓、あるいは北部九州の甕棺墓など、弥生時代の墓から大量の水銀朱が検出されています。弥生時代に水銀はどんな目的で使われたのか、今年の学習テーマにしたいと思っています。

ここの水銀鉱山は昭和になってから地元の北村氏が復活させました。北村氏が考案した水銀精錬装置が残されています。下の説明板と写真をもとに仕組みを書き留めておきます。

①まず、下の写真に見える3カ所の穴(3本の鉄管)に粉末にした辰砂と石灰を10対1の割合で混ぜて入れる。

②上の写真の向かって左の側面に炉があり(下の写真)、ここにおがくずを詰めて点火し、加熱する。

③辰砂に含まれる水銀は300度くらいでガス化し始め、下の写真の真ん中にある垂直の3本の鉄管に向かい、その途中で冷却されて液体の水銀となって下に落ちるのでこれを捕集する。

④残ったガスは下の写真の左斜め下に伸びる鉄管を通って左端の円筒に入り、ここで液化させて捕集する。


かなり簡単な仕組みで水銀が精錬できるようです。昭和30年代にはこの装置で精錬された水銀が月産で340キロもあったというから驚きです。

このあと行く神宮寺(丹生大師)には古代の精錬装置(精錬釜)が残っているといいます。基本原理は同じで、すり潰した辰砂を釜に入れて蓋をする。蓋の上部には小さな穴があいているので、そこに管を通してもう一方の端を水を入れた容器(甕のようなものか)につける。釜を熱し続けると気化した水銀が管を通って水に入り、冷却されて液化する、という仕組みです。水銀の説明はこれくらいにして、次に進みます。

車で少し戻って「せいわの里まめや」というお店で地元のイチゴとブルーベリーを購入し、車の中でそのままいただきました。甘酸っぱくて美味しいイチゴでした。車をそこに置かせてもらってすぐ近くの立梅用水を見学します。

ここにも水銀坑跡が残されています。

水銀朱を勉強中の自分にとってはたいへん満足度の高い場所でした。このあとは、すぐ近くにある丹生大師と丹生神社にお参りしました。

丹生大師は「女人高野丹生山神宮寺成就院」というのが正式名称で、弘法大師の師匠である勤操大徳が開山、弘法大師によって七堂伽藍が建立されたお寺です。

本堂の裏手には丹生都比売を祀る丹生都姫神社がありました。

丹生大師のとなりにある丹生神社は明治時代に10数社の境内社を合祀したために、祭神として埴山姫命、水波賣命ほか16柱が祀られています。

参道の一番奥まったところには丹生中神社があり、金山彦命、金山比女命など17柱が祀られています。丹生神社の埴山姫命は土を掘ることを連想し、この丹生中神社の祭神は金属の神を想起させてくれます。いずれも水銀採掘に関連してここに祀られるようになったと思われます。

車を停めさせてもらった「ふれあいの館」で少し買い物をして出発。ちょっと贅沢しようと決めたランチの時間です。
いろいろ悩んで決めたお店が「うなぎのたちの」。香ばしいうなぎのひつまぶしをいただきました。これまでで一番のひつまぶしでした。

お昼からは松阪城跡に行って、まずは松阪市立歴史民俗資料館。

1Fの展示では豪商の町松阪の歴史を学びます。

ビデオコーナーで丹生大師に残る水銀釜による精錬方法の説明のビデオが流れていました。2Fは松阪にゆかりのある映画監督の小津安二郎に関連する展示です。昭和初めの映画のことはよくわからないけど、人間の生き様が勉強になりました。
資料館を出て城跡を散策。小高い丘の上にあるので松阪市内を一望できます。

松阪が生んだ天才国学者本居宣長が住んだ居宅が城内に移築されていて内部を自由に見学できます。

さらに「本居宣長記念館」があって宣長の生涯や研究に関する資料が展示されています。『古事記伝』は有名ですが、それ以外にも研究成果としてたくさんの本が出版されていることを初めて知りました。

立派な博物館でした。猛暑の日は冷房の効いた屋内で過ごすのが何よりです。車中泊旅の過ごし方パターンが一つ増えました。そうそう、この松阪城跡のとなりには市営の無料駐車場があるので、駐車時間を気にせずに見学できるのもよかったです。
最後に、市内にある本居宣長の居宅が実際にあった場所に行ってみました。移築された居宅をみたときには大きく感じたのですが、実際に敷地を見るとそれほどでもないな、という印象でした。

これで最終日の予定を終了です。大阪の自宅までいつも通りに下道を走って帰りました。大きな渋滞もなく、スムーズに走って帰宅時刻は21時半。

以上、4日間にわたる紀伊半島一周車中泊旅のレポートでした。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 
(おわり)










 

紀伊半島一周車中泊旅(3日目)

紀伊半島を一周する車中泊旅の3日目。気温が異常に高かった前日、夜になっても気温がそれほど下がらずにたいへん寝苦しく、途中で窓を開け、USB扇風機をつけました。寝るときにエンジンを切っておくのが車中泊のマナーなのですが、隣の車が夜中にエンジンをかけてエアコンをつけたようで、やかましかったぞ。そんなこともあって朝の4時過ぎに目が覚めました。しばらくまどろんでいたのですが、この道の駅が海岸近くにあることを思い出し、日の出を見ようと急きょ海岸に移動しました。

太陽はすでに雲の向こうに昇っていましたが、朝の海岸で気持ちよく過ごしました。ランニングをするお爺さんたちとも挨拶を交わしてそれなりに楽しい時間でした。

道の駅に戻って洗顔と歯みがきを済ませ、すぐ近くの補陀落山寺に行きました。平安時代から江戸時代にかけて、海の向こうにあるという極楽浄土を目指して那智の浜から船で旅立つ補陀落渡海という儀礼が行われていました。生きたまま釘で密閉された船に乗せられて沖合いに流されるというものです。自らの意志なのか、修行としての行為なのか、その精神性は現代人には理解ができません。

裏山には渡海上人たちの墓がありました。もちろん遺体はここに埋められていません。

平清盛の直系の孫にあたる平維盛平氏没落後にここから渡海したと初めて知りました。供養塔が建っていました。

境内には渡海船が保存されていますが、朝が早すぎて見れませんでした。補陀落山寺を出たあとは新宮まで走ってモーニングです。

次はミカンの町、御浜町です。旅の出発前に確認した天気予報では曇りの予報だったのでロッキングチェアと何冊かの本を持参し「七里御浜ふれあいビーチ」で風に揺られながら読書を楽しもうと思っていました。ところが、前日に続いて猛暑です。ビーチに出てみたものの、早々に退散しました。

すぐ近くの「道の駅パーク七里御浜」で休憩をとって、もうひとつの目的であったミカンの調達作戦を考えました。事前に御浜町の「X」公式アカウントに問合せて、この季節に手に入る品種や買える場所を聞いていて、この道の駅でも販売されていたのですが、まず道端の無人販売所を探そうと思って出発です。内陸部に入っていくとミカンを置いていないものの、あちこちに無人販売所があります。みかんどころ有田の比ではありません。

そして、311号線を走っていてついに見つけました。「なかよしステーション神木」で甘夏をゲット、次の「すぎもと農園」でサンフルーツを、さらに次の無人販売所で「カラマンダリン」を買うことができました。

秋のミカンの季節にもう一度来てみたくなりました。有田もいいけど、御浜町はもっとよさそうです。ちなみに、有田に買い出しに行った時の様子はこんな感じです。

kodaishi-fantasy.hatenablog.com

御浜町で目的のひとつを達成できたので、気をよくして熊野に向かいました。熊野では少し遅い目のランチです。イタリアンの名店「イルレガーロ(Il Regalo)」に入ってコスパ最高のランチをいただきました。

熊野大泊ICから紀勢自動車道にのって、途中、紀北PAの始神テラスで休憩、無料区間が終わる紀伊長嶋ICで降りて、そのあとは42号線を「道の駅奥伊勢おおだい」まで走りました。道の駅では晩ご飯用におにぎりとサンドイッチを調達し、お風呂と車中泊の場所を探索して出発。

松阪市内まで走って「松阪温泉熊野の郷」で入浴。入浴後に駐車場でおにぎりとサンドイッチを頬張って晩ご飯を済ませ「道の駅茶倉駅」まで走って車中泊です。すでに3台ほど車中泊の車がいました。

翌朝、「車中泊禁止」の表示を見つけました。たまたま道の駅のお店が休みだったのでとがめられることはなかったのですが、ゴメンなさい。この道の駅、何年か前にも車中泊をしているのですが、そのときにはこの表示がなかったのと、今回は到着時が真っ暗でこの表示を見つけることができず、大失敗をしてしまいました。反省です。

この日も前日以上の猛暑だったけど、それほど暑くない夜を過ごせました。

 

(つづく)

 

 

 

紀伊半島一周車中泊旅(2日目)

紀伊半島を一周する車中泊旅の2日目。

「道の駅みなべうめ振興館」を朝8時すぎに出発。モーニングを食べようとGoogleで検索した白浜の喫茶店を目指します。途中、梅林の間を抜ける道を走っているとあちこちうで収穫していました。あー、南部はやっぱり梅の町なんだなあと改めて実感。

白浜と言えばお決まりの「とれとれ市場」。吸い込まれるように駐車場に入ってしまいました。

店内を二周したけど、結局何も買わずに退店。決して安くはないです。

茶店「Colony」に到着。最近はこういう喫茶店に入ることがめっきり減りました。モーニングも喫茶店のモーニング、という感じで美味しくいただきました。

とりあえず海岸沿いの42号線を南に向かって走ります。雨上がりの朝、天気予報は曇りだったはずなのに何と快晴、気温が急上昇です。気持ちよさそうな海岸を見つけたので立ち寄りました。



見草漁港というらしい。潮が引いて岩場の潮溜まりには小さな貝やヤドカリ、エビ、カニがうごめいています。1時間くらいのんびりと過ごしました。

少し走って「道の駅 椿はなの湯」でトイレ休憩。ここは足湯がありました。大阪の堺から来たというご夫婦が「近くの港で水揚げされたばかりのカツオが11時から販売されるので時間つぶしに立ち寄った」と話をしていたのだけど、どこの港なんだろう。最終日なら多分ついて行ったと思う。

白浜町の日置に「鳥毛洞窟」という海岸洞窟があります。近くまで道が延びていたので行ってみたのですが、道が細い上に全面駐車禁止と書かれていたのであきらめて、代わりにすぐ近くの「道の駅志原海岸」へ。誰もいないビーチへ降りて波打ち際でゆったり過ごしました。

道の駅を出てすぐ、オークワに立ち寄ってアイスと、太巻きがメチャ大きくて安かったので購入。すさみ町、串本町を通り過ぎて古座川町の「道の駅虫喰岩」に到着。目の前に奇岩が迫っていますが、とりあえずお店に入ってみてビックリ。映画「宇宙兄弟」のグッズなど、宇宙関係の商品やパンフレットが置いてある。そういえば、和歌山のどこかでロケットの打ち上げが話題になっていた記憶がある。ここだったのか。

お店の方と話をしていると「ちょうど詳しい人が来ているので呼んでみます」と。いろいろお伺いしたロケット打ち上げの話は割愛しますが、その方は東京から古座川町にご夫婦で移住してきて、4月に串本にオープンしたばかりの「Sora-Miru」という宇宙ミュージアムに勤務されているらしく、さらには近くで古民家を改装したカフェを営んでいるという。さっそく訪ねてみました。

さとたく」というお店。古座川に面したロケーションにあって、ものすごく居心地のいい空間でした。窓辺に座って、古座川のゆったりとした流れや緑の木々、青い空を眺めていると時間が経つのを忘れてしまいます。地元の食材ばかりを使った奥さん手作りのドリンクやスイーツもなんとも優しい味です。ご夫婦の地域再生、地域貢献への情熱をお聴きしているだけでも楽しい。皆さんにオススメしたいカフェです(営業は土日のみです)。あまりの居心地の良さに長居してしまいました。後ろ髪を引かれる思いで再度虫喰岩へ。

無数の穴があいてます。岩の隙間に入った塩分を含んだ水が蒸発すると塩の結晶が残ります。これを繰り返して結晶が大きくなると岩の表面がはがれて穴があく。さらにこれを繰り返していくと穴が大きくなっていく、という理屈らしい。砂が固まったような岩ですが、決して手で割れるほどの脆さではなかった。

少し時間が早かったものの、さとたくさんに教えてもらった日帰り温泉「四季の郷温泉」に向かうことにしました。山あいの中にポツンと佇む温泉で、ぬるいお湯にゆっくりと浸かって一日の疲れをとりました。

19時前に出発してこの日の車中泊場所「道の駅なち」に到着。お昼に買っておいた太巻きを二人で頬張って晩ご飯。結構疲れていたようで22時半に就寝です。

(つづく)

 

 

紀伊半島一周車中泊旅(1日目)

2025年6月14日から17日までの4日間をかけて、大阪の自宅から紀伊半島を時計と反対回りに一周する車中泊旅に行ってきました。

まず初日は昼過ぎに自宅を出て和歌山県有田郡のあらぎ島を目指します。国道170号線から480号線に入り、和泉山脈を縦断、紀ノ川を渡って山の中をクネクネと走って2時間ほどで到着。雨の中、田植えが終わったばかりのあらぎ島はシンプルだけど絵になる景色でした。島とは名ばかりで、有田川の蛇行が生み出した地形です。

稲が青々と伸びる盛夏、金色に輝く秋、雪の積もる冬、田植え前に水を張る初夏、四季それぞれに素晴らしい景色が見られます。

近くの「道の駅あらぎの里」で生こんにゃくと豆腐、わさび寿司を購入して出発。有田川沿いに西に進みます。途中、塩や醤油を忘れたことに気づいてスーパーで醤油を購入、さっそくこんにゃくと豆腐をいただきました。絶品でした。

有田を抜ける途中、いつもみかんを買いに行く「どんどん広場」や「ファーマーズマーケットありだっこ」に寄ってみたものの目ぼしいものがなく、野菜をちょっとだけ買って出ました。

国道42号線で湯浅を抜け、再び山に入って「滝原温泉ほたるの湯」に到着。少し熱いめのいいお湯です。館内で晩ご飯を済ませました。

再び雨の中を南部(みなべ)まで走って「道の駅みなべうめ振興館」で車中泊です。

この日は出発が遅かったので、以上で終了です。走行距離は160キロでした。

(つづく)

 

 

 

 

 

古代史仲間と行く但馬・丹後ツアー⑳

但馬・丹後ツアーの3日目。与謝野町立古墳公園をあとにして、いよいよ最後の目的地、福知山市の広峯古墳記念公園に向かいます。途中、道の駅「シルクのまち かや」でランチをとりました。この道の駅、車中泊をしようと来たことがあるのですが、車が1台もいなくて、真っ暗であまりに寂しかったのでパスをしたところです。

福知山市内まで30分ほど。広峯古墳群は1986年の区画整理事業に伴って調査が実施されましたが、なかでも15号墳は全長40m、4世紀後半の前方後円墳で、広峯古墳群の盟主墳とされています。

現在は広峯古墳記念公園内に3/4の大きさで復元されています。この公園に来るのは2回目です。

後円部の半分が消失したことによって埋葬施設も半分が失われましたが、土壙墓から組合せ式箱形木棺が見つかっています。棺内は朱が塗布されており、「景初四年」の銘が入った盤龍鏡が副葬されていました。

「景初四年」は実在しない年紀ですが、まさに卑弥呼の時代の鏡として注目されています。公園の入口横にその鏡が出た場所を示す碑が立っています。

広峯15号墳は由良川流域で初めて登場した前方後円墳とのことですが、4世紀後半で初現というのは遅いですね。ただ、葺石も埴輪もなく、埋葬施設も木棺直葬であることなどから近畿北部の古墳時代を考える上での問題のひとつになっているらしい。

見学中に雨が降ってきたので車に戻ったのですが、その途端に急に土砂降りになりました。間一髪セーフってやつです。

 

さあ、これにて3日間のすべての行程を終えました。京都駅まで走って解散です。皆さん、お疲れさまでした。

 

さて、今回の3日間の但馬・丹後ツアーで考えたことの1つめ。

弥生時代の丹後では首長墓に朱を用いる「施朱の風習」と、土器を供献する行為が共通にみられました。これらは神仙思想にもとづく葬送儀礼の一環と考えるのですが、その丹後に神仙方術の使い手である徐福伝承が伝えられ、徐福を祭神として祀る神社(新井崎神社)があります。弥生時代の丹後の王は徐福を象徴とする神仙思想の影響を強く受けたのではないでしょうか。また、新井崎神社の近くに浦嶋神社があり、蓬莱山で仙人に会ったという浦島太郎が祀られます。徐福伝承の反映です。

前方後円墳を神仙思想由来の壺形古墳と考えるわたしにとって、丹後最大の壺形古墳である網野銚子山古墳のすぐ近くに浦嶋子居宅跡があるのも示唆的で、神仙思想の影響を受けた丹後の王が神仙方術の使い手(それが浦嶋子がどうかは別にして)に壺形王墓の築造を仕切らせた名残りではないでしょうか。

 

もうひとつ考えたこと。

弥生時代の丹後の王墓は神仙思想の影響を受けたものの、まだ墳墓を壺形にするには至らずに伝統的に方形墓の築造を続けました。その墳形、墳丘規模、埋葬施設、副葬品、供献土器などの類似性から、内場山墳丘墓は、大風呂南1・2号墓、赤坂今井墳丘墓の直接的系譜にある王墓として、丹後の政治勢力丹波の篠山に南進したとする説があります。

一方、内場山墳丘墓とほぼ同時期に、少し離れているものの同じ丹波前方後円墳(壺形古墳)である園部黒田古墳が造られています。神仙思想を反映した壺形古墳は円形周溝墓に着想を得た墳形と考えられるのですが、丹後勢力が南進した丹波篠山地域はその円形周溝墓が隆盛していた摂津や播磨とのつながりが強く、ここに神仙思想と円形周溝墓が融合して壺形古墳である黒田古墳が誕生した、と考えるのはどうでしょうか。

 

以上、但馬・丹後ツアーのレポートでした。

 

(おわり)

 

 

 

 

古代史仲間と行く但馬・丹後ツアー⑲

但馬・丹後ツアーの3日目。日吉ヶ丘遺跡の次はお隣の与謝野町立古墳公園です。前回は車中泊の途中に寄ったのですが、ワンちゃんと一緒に入れなかったので断念した公園。公園内には蛭子山1号墳・2号墳、作山1号~5号墳が整備、保存されるだけでなく、与謝野町内で出土した遺物を展示する「はにわ資料館」が併設されています。

まず、蛭子山1号墳に登ります。4世紀中葉の築造で全長145mの三段築成、各段に埴輪列が巡り、川原石の葺石が見られます。3基の埋葬施設があり、中央の第1主体に直葬されていた舟形石棺から内行花文鏡や三葉環頭大刀が、棺外からも直刀、鉄鏃、鉄斧などの鉄製品が見つかっています。

後円部の墳頂には発掘された石棺が安置される小屋が建っています。扉が開くので中に入りました。

石枕が彫り込まれています。

蓋の裏側が赤く塗られていますが、これは水銀朱ではなくベンガラだそうです。

墓壙の周囲に方形に溝を掘り込んで推計で45本の丹後型円筒埴輪と朝顔型埴輪が並べられていました。いわゆる埴輪の囲繞配列です。第2主体も同様に方形の埴輪列があったそうです。

前方部の平坦面が少し狭い気がします。この1号墳の後円部と接するように2号墳が築かれています。

2号墳は42m×32mの方墳で、1号墳のすぐあとに造られたらしい。墳丘上に蛭子神社が鎮座しています。3号墳は一辺15mの方墳とのことですが、多分これです。

公園外に4~8号墳があり、あわせて蛭子山古墳群と呼ぶそうです。公園内にはその蛭子山古墳群とは谷をひとつ挟んだとなりの尾根上に作山古墳群があり、前方後円墳1基、円墳2基、方墳2基の計5基の古墳が並んでいます。

公園の最奥部にある4号墳から順に見学しました。4号墳は古墳時代中期前葉頃の全長29mの前方後円墳。埋葬施設は不明です。

3号墳は一辺17mの方墳で築造時期は4号墳と同じ時期の古墳時代中期前葉頃。墳頂に置かれた大型の壺形土器は西部瀬戸内系らしい。下の写真は2号墳からの撮影で、奥に見えるのが4号墳で真ん中が3号墳です。

また下の写真は4号墳の墳丘からの撮影で、奥から順に1号墳、2号墳、3号墳と並んでいます。

次に2号墳は直径26m、二段の円墳。埋葬施設は未調査ですが、墳頂部と段に丹後型円筒埴輪と普通の円筒埴輪が並べられ、さらに墳頂では4.5mの方形土器列が検出されています。築造時期は1号墳よりも遅い古墳時代前期末から中期初頭。

そして1号墳は直径28mの造出しのある円墳。二段築成で2号墳同様に墳頂部や段上に丹後型円筒埴輪、朝顔形埴輪などが並べられています。築造時期は古墳時代前期後葉頃。

ここは埋葬施設が調査されています。組合式石棺が直葬され、主室に成人男性の人骨、変形四獣鏡、500点以上のガラス製小玉などが、副室には鉄剣12点、刀子4点などが副葬されていました。

墳丘の周辺では土器棺など15基の埋葬施設が見つかっています。

そして最後に5号墳。一辺13mの方墳ですが、面白いことに1号墳の造り出しと重なっているのです。築造時期は古墳時代前期前葉頃で5基の中で最も早い時期に造られた古墳です。つまり1号墳の造り出しは5号墳にかぶさるように設けられたということです。

以上が作山古墳群です。

最後に「はにわ資料館」を見学しました。小さいながらも満足度の高い資料館で、丹後の重要遺跡を紹介する写真パネルが秀逸。もちろん丹後型円筒埴輪をはじめとする遺物の展示もしっかりしている。

蛭子山1号墳、作山古墳群、はにわ資料館、いずれも期待以上に楽しめる公園でした。

さあ、次はいよいよこの旅の最後の目的地、縮小復元された広峯15墳を見に行きます。

 

(つづく)

 

 

 

 

古代史仲間と行く但馬・丹後ツアー⑱

但馬・丹後ツアーの3日目。次の目的地、日吉ヶ丘遺跡に向けて籠神社を出発。左手には阿蘇海が広がり、天橋立が見えています。せっかく天橋立に来たのだから絶景を楽しんでもらおうと急きょ成相山に行くことにしました。

天橋立に来た多くの人は籠神社の隣りにあるケーブルカーに乗って傘松公園へ行き、股覗きを楽しむのでしょうが、成相山からの眺望はそれを凌駕します。

冠島と沓島まで望めます。

ひとり500円の入山料がかかりますが、おススメのスポットです。私たちは五重塔がそびえる成相寺には目もくれず、絶景だけのために入山したのでした。

さて、丹後半島とはこれにてお別れして、日吉ヶ丘遺跡に向かいます。弥生時代中期中頃から後半にかけての環濠集落跡と、首長墓と想定される大型の方形貼石墓が見つかっています。ここも2回目です。

弥生中期中頃とされる方形貼石墓は平野を望む丘陵先端に位置し、二つの環濠の間に設けられています。約32m×約20mの長方形の墳丘墓で、弥生中期では吉野ヶ里の北墳丘墓に次ぐ規模とのこと。丹後の首長墓はやはり方形です。

1mほどの高さがあります。貼石はすべて回収されている様子ですが、近くで草刈りをしていたおじさんが「なぜかわからんのだけど、ひとつだけ石が残っている。2000年前からそのまま残されている。」と教えてくれました。

たしかに貼石に使われたと思われる花崗岩です。これだけ回収を忘れたのか、それとも意図的に残したのか、あるいは調査後に誰かが埋めたのか。

墳丘上にあった1基の埋葬施設には組合せ式木棺が納められ、木棺内からは水銀朱と多量の管玉が検出されました。赤坂今井墳丘墓、大風呂南1号墓、三坂神社3号墓など、今回訪ねた丹後の弥生首長墓では好んで朱が使われていたようです。

この日吉ヶ丘では検出されていないようですが、方形、朱のほかに弥生時代の丹後の墓制の特徴として墓壙内破砕土器供献というのがあります。これらはすべて神仙思想に基づくもの、と考えられます。神仙思想と葬送儀礼や古墳との関係についてはこれまで様々に考察してきました。ご興味あれば是非ご覧ください(noteは有料記事となっております)。

この日吉ヶ丘遺跡の背後に延びてくる複数の尾根には古墳時代前期中頃に造られた総数40基の明石墳墓群があります。また、隣には日本海三大古墳のひとつ、蛭子山1号墳があります。日吉ヶ丘墳丘墓はこれらに先駆けて築かれたこの地の初代王の墓なのかもわかりません。

次はその蛭子山1号墳を見に行きます。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

古代史仲間と行く但馬・丹後ツアー⑰

但馬・丹後ツアーの3日目。大宮賣神社の次は、前日に走った阿蘇海沿いの国道を戻って籠神社、眞名井神社を目指します。8年前に来た時は籠神社に車を停めて眞名井神社まで歩いたのですが、今回は眞名井神社に駐車場があると聞いたので、先にそちらに向かいました。ちなみに8年前は社殿の解体修理中だったので何も見ることができませんでした。

眞名井神社は籠神社の奥宮で境外摂社とされています。本宮が「下宮」で奥宮は「上宮」に位置づけられるそうです。祭神は、磐座主座が豊受大神相殿神罔象女命彦火火出見尊・神代五代神、磐座西座が天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神とされます。

籠神社の宮司である海部家の祖先である彦火明命が籠神社の海の奥宮である冠島(新井崎神社から見えました)に降臨し、この地に匏宮(よさのみや)を建て、豊受大神を祀ったのが始まりらしい。

撮影はここまで。ここから先の境内は撮影禁止となっていました。次は籠神社へ参ります。

主祭神は彦火明命、相殿神豊受大神天照大神・海神・天水分神の四柱です。由緒を公式ホームページから引用します。

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。その故事により当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれております。

両大神が伊勢にお遷りの後、養老三年に本宮を奥宮眞名井神社(吉佐宮)の地から、現今の籠神社の地へとお遷して、社名を吉佐宮から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りしました。

旧社名の匏宮の「匏(よさ)」と吉佐宮の「吉佐(よさ)」という宮号は現在も郡名(与謝郡)や海の名称(与謝の海)となって継承されて来ております。

彦火明命と饒速日命、海部氏と尾張氏豊受大神天照大神伊勢神宮の内宮と外宮、などなど様々なネタを提供してくれる興味の尽きない神社です。伊勢神宮については昨年来の勉強の成果をまとめて電子出版しました。

境内の隅っこで皆でいろいろ議論しました。私が、伊勢の内宮に天照大神の荒御魂を祀る荒祭宮があるのだけど和御霊を祀る社がないのはどうしてだろう、と話をした途端に背後を指さされ、振り向くと何とそこに天照大神和魂社という境内摂社が鎮座していました。これには驚きました。

さて、ここからは丹後半島に別れを告げて日吉ヶ丘遺跡に向かうのですが、その前に、、、

 

(つづく)

 

 

 

 

 




 

 

古代史仲間と行く但馬・丹後ツアー⑯

但馬・丹後ツアーの3日目。最終日はホテルから近い途中ケ丘遺跡からスタートです。途中ケ丘遺跡は竹野川支流の鱒留川の右岸、北向きの河岸段丘上に立地する弥生時代前期中頃から後期にいたる環濠集落遺跡です。

遺跡があったところには峰山途中ケ丘公園が広がっています。

集落の人口増加に伴って環濠が外側に広がっていき、合計で8本の濠が確認されています。出土物はガラス製管玉、陶塤・紡錘車などの土製品、鉄斧・鉄鏃などの鉄製品など多種多様。

それにしても丹後の弥生遺跡ではいたるところで製鉄に関連する遺物が出土しています。弥生時代前期から中期にかけて、すでにたたらによる製鉄が行われていた可能性が指摘されています。さて、次は丹後国二之宮の大宮賣神社へ向かいます。

大宮賣神社の祭神は大宮賣神と若宮賣神の二柱です。宮中八神の一柱である大宮賣神を宮中以外で祀る唯一の式内社がこの大宮賣神社で、宮中の大宮賣神の元宮とする説もあるようです。

ここに来たのはこの神社参拝が目的ではなく、境内一帯が弥生時代前期に始まる遺跡で、古墳時代中期後葉の祭祀遺物と考えられる滑石製勾玉、管玉、臼玉、鏡形石製品などが出土する古代の祭祀場とされることからです。

本殿の裏には禁足の杜が広がっています。

出土遺物の様相から、弥生前期に集落形成が始まり、中期から後期には大規模な拠点集落として発展、古墳時代中期から後期には祭祀活動が行われ、奈良時代になって神社に発展したと考えられています。古代の祭祀場がそのまま神社に発展したことが明らかとなっている貴重な遺跡です。

社記によると、崇神天皇7年に詔勅で大宮賣神を祀り、その後、崇神天皇10年に丹波道主命が若宮賣神を祀ったと伝えているそうですが、下の写真にあるように神社側の見解は、大宮賣神が天鈿女神と、若宮賣神は豊受神とそれぞれ同一神とする立場をとっているようです。

誰もいない朝の早い時間帯、古代から祭祀場であり続けるこの境内に立っていると、心なしかいつもより神聖な気持ちが増すような気がします。

さて、次も神聖な場所に向かうことにします。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古代史仲間と行く但馬・丹後ツアー⑮

但馬・丹後ツアーの2日目。新井崎神社をあとにしてホテルに向かう途中、まだ少し時間があったので3日目に予定にしていた大風呂南墳墓群に行くことにしました。ここも2回目です。阿蘇海に面した丘陵上に築かれた墳墓群です。

弥生時代後期後半の1号墓は丹後を代表する王墓とされます。27m×18mの長方形墳の中心の墓坑には長さ4.3mの大きな舟底木棺が納められ、内部に朱が敷き詰められていました。ガラス釧1個、銅釧13個、ガラス勾玉6個、鉄剣14本など、総数412点もの副葬品が見つかっています。とくにガラス釧は全国で4例目、完形では初めてとなります。また、弥生時代の墳墓からこれだけ大量の鉄剣が出たのも初めてです。

これは大阪府弥生文化博物館に展示されていた複製品です。今回のツアーでは展示物として見ることができなかったので、昨年に撮った写真を掲載しておきます。

8年前に来た時もそうでしたが、現地は草木が茂って荒れ放題。しかもモノクロの説明板。せめてガラス釧のブルーの美しさがわかるようにカラーにしてもらいたいですね。

生い茂る草木の向こうに高い木々が林立していますが、これらがなければ阿蘇海を一望できるロケーションです。

かろうじて車を停めるスペースはあるものの、ガードレールがない峠道なので大きな車の方向転換はかなりの慎重さが必要です。これから行かれる方は十分にご注意ください。

まだ日が暮れていなかったのでホテルに向かう途中にさらにもうひとつ、翌日に予定していた三坂神社墳墓群に寄りました。宿泊施設の建設に伴って見つかった弥生時代後期初頭から前葉にかけての台状墓です。

以前に車中泊で丹後を訪れた際、ここが三坂神社墳墓群だと知らずに入浴のために立ち寄り、ワンコと散歩をしているときに偶然にこの説明板を見つけたのです。

丘陵の先端部を階段状に成形して6基の方形あるいは半円形の台状墓を造っています。一辺18mの不整形な方形である3号墓は墳墓群最大で最も高い位置にあり、黒漆塗りの儀仗、素環頭大刀、玉飾りなどが副葬され、朱をふんだんに使った墓坑内での破砕土器供献が行われていました。

これらの台状墓をつぶして丘の上のホテルに通じる坂道が敷設されました。

その丘の上からの眺めはなかなかの絶景でした。

そろそろ陽が沈もうとしています。この日はこれにて終了と思ってホテルのすぐ近くまで走ってきて、すぐそこに扇谷遺跡があることに気がつき、急きょ立ち寄ることにしました。

弥生時代前期末から中期初頭にかけて比較的短期間営まれた日本最古とされる高地性の環濠集落。陶塤、ガラスの塊、紡錘車などが出土、砂鉄系原料から製造された鋳造品とされる鉄斧および鉄滓も出ていて、当時のハイテク集団が存在していたとされます。

遺跡はこの丘の上にあるので見ることができませんが、弥生時代の丹後王国を代表する集落遺跡として著名なので、来たかったところです。

さて、これにて2日目の予定は終了です。午前中の行程が思いのほか順調に進んだために予定を変更して丹後半島を一周、それでも時間が余ったので3日目の予定を少し先取り、さらに予定に入れてなかった扇谷遺跡にも立ち寄れて、言うことなしの2日目となりました。明日はいよいよ最終日となります。

 

(つづく)